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松林彩子

音楽シリーズ”contrasts” (国画賞)

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松林彩子

空想・夢想と日常の中のアレ

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松林彩子

音楽シリーズ”contrasts” 202112d

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ご 挨 拶
「思いもかけない想定外の角度から」

 2022年1月1日の日本経済新聞第一面に「資本主義 創り直す」と題した興味深い記事が載っていました。
 資本主義の危機を歴史から分析し、第一の危機を1929年の世界大恐慌、これをケインズの唱える「大きな政府」の創出で乗り切り、米ソ冷戦時代には皮肉にも「大きくなりすぎた政府」が資本主義の第二の危機を創出してしまい、アメリカのレーガンやイギリスのサッチャーの市場原理主義によってその難を逃れはしたものの、現在また「皮肉に大きくなりすぎた市場」によって資本主義の第三の危機が訪れているという内容のものでした。
 では、この資本主義の第三の危機に対してどのように対応すればいいのでしょうか? サイクルに沿って「少しだけ修正を施した大きな政府」を創出すればいいのでしょうか?
 日本経済新聞の記事はそのようなことは語っていませんでした。刮目すべきは今回の危機において特に注意しなければならない事項として、資本主義の両輪である民主主義までも危機に晒されていると指摘していたことです。これはまさに卓見です。
 今の時代に民主主義を弱体化させるようなことがあってはならないのです。
 なぜか?
 香港の悲劇や台湾の危機を見れば一目瞭然、その背後にとてつもない権威主義が忍び寄って来ているからです。
 記事は続けてこう警鐘を鳴らします。日本はまだ第二の危機からさえ脱却出来ていない、日本の弱点は柔軟性の欠如である、と。
 確かにそうかもしれません。しかしこの柔軟性というものを政府ばかりに要求するのもどうかと私は考えます。政府ばかりに押し付けては、歪んだ形で巨大な市場主義を生むだけであって、そこから派生する富の偏在で民主主義が危険に晒されるという第三の危機に直面するのが明白でしょう。
 柔軟性を求めるのであれば政府、企業、個人の三者に対して要求すべきであると私は考えます。しかしこれもまた難しい問題であって、三者に求める柔軟性は当然内容がそれぞれ異なってきますし、一様に定義できないということです。
 そしてまた柔軟性を求める声も今になって起こってきたことではなく、日本においては30年程前から既に唱えられ始めていることです。
 もうそろそろ柔軟性という言葉を他の言葉に置き換えてみては如何でしょうか?

 DX(デジタル トランスフォーメーション)。確かに明るい兆しもあります。
 古来人類は有形のものしか見てきませんでした。無形のものは無きに等しい扱いをされてきたわけでありますが、DXの導入によってようやく無形のものにも光が当てられるようになったということです。無形のものを見る、見ることが出来る、というのは一つの能力であって、今後DXの進展によってその能力が集積され、いずれ日本経済の大きな飛躍を促すであろうと私は期待しています。
 しかしそういった社会の希望の光というものは同時に痛みを伴うのが常であり、光から弾かれる人も多く出てくることは間違いありません。そういう人達をどのように救済するのか? 彼らを見殺しにするようなことがあっては日本の民主主義は危ぶまれます。
 
 これらの状況を見るとその難解さに悲観的にならざるを得ませんが、突破口がないわけではありません。ヒントは必ずあるはずです。

 「悲しみは新しい悲しみによって癒される」と言ったのはシェイクスピアだったでしょうか?
 この台詞は単に悲しみの大小について述べているのではありませんし、皮肉を言っているわけでもありません。
 新しい悲しみとは全く思いもかけない想定外の角度からやって来るものを意味しているのだと私は考えています。
 この道理を現状にあてはめてみると、厳しい状況を打破するヒントは全く思いもかけない想定外の角度からやって来るということになります。思考の延長線上、直視の先からヒントはやって来ないのです。
 ならば私達は「角度」というものに対してもっと敏感にならなければなりません。
 車を例にとって見てみましょう。テスラは車をコンピュータープログラムの集積であると認識しました。誰もが車を鉄やアルミの塊りと認識してしまうところを、テスラはコンピュータープログラムの塊りだと見たのです。有形のものを無形のものと見た。ここからテスラの快進撃が始まります。
 これを、事物を多角的に見る、という簡単な解釈で済ませてはいけません。事物を多角的に見る以前に、自分自身が「多角からの客体」になっていなければならないということです。その準備がテスラには出来ていたということです。
 先程申し上げた柔軟性という言葉を「角度の気づき」という言葉に置き換えてみては如何でしょうか?

 言葉の深化、概念化という現象があります。コロナという脅威の出現により、私達は皆、「距離」という言葉を耳にするようになりました。社会的距離、物理的距離、そしてそれに伴う精神的距離。そしてそれを実行に移しています。
 人類は正しい選択肢を取りました。距離をとるということ、要するに生きるという選択肢です。
 実は私はコロナ以前のずっと前から犯罪や戦争の一つの根本的な解として、距離というものの概念化を考えていたのですが、皮肉にもコロナが強力な説法者となって、また違った意味で世界に距離の大切さを示してくれたような感がしています。
 この時代において、あえて距離をとらないという行為も魅惑的に聞こえはしますが、それは危険です。距離をとらない、距離を否定するという行為は確かに魅力的なロマンス的行為の一類型ではありますが、そもそもロマンスというのは必然的最終目的地を死と定める死神の手招きなのです。多少乱暴な物言いを許して頂けるのなら、ロマンスと犯罪、戦争は同類です。私達は一体誰に向かってマスクを付けているのでしょうか?
 人類は生きるという現実的に正しい選択肢をとりました。そうした私達の意識の内には必然的に「距離」という言葉が根を張り、概念化し始めています。
 コロナと並走するこの時代において、私はあえて「距離」という言葉と併せて「角度」という言葉の深化、概念化も提唱したいと考えているのです。

 前置きが大分長くなってしまいましたことをお詫び申し上げます。
 当社は下記の事業を3本柱として設立登記致しました。
1、美術作品の販売の受託
2、美術業界におけるシンクタンク業
3、一般企業に対するコンサルタント業
2の事業においてまずは著作権の法的整備に携わっていきたいと考えています。私は行政書士もしていますので、その業務で培った知識と情報を活用して携わっていきたいと考えているのですが、最初の要として、すべての画家様、アーティスト様に「自分には法律上の人格があり、財産も持っているのだ」ということをきちんと自覚して頂く必要があります。
 絵画作品はただの商品ではありません。
 私は昨今増加している絵画のレンタル業において、今後著作権の侵害行為が多発してくるであろうと危惧しております。
 それらを未然に防ぐためにも絵画に内包される2つの特性をきちんと認識して貰いたいのです。2つの特性というのは商品としての特性と著作物としての特性です。要するに絵画のレンタルは、商品としての価値しか持たない車や家具等のレンタルとは全く性質が異なっていて、画家が受け取る金額には商品使用としての代価と著作財産権の利用許諾料の両方が含まれていなければならないということです。
 もし転貸借という形をとるのであれば、転借人との転貸借契約書と併せて著作者との著作物利用許諾契約書の交付は最低限行うべきですし、その著作物利用許諾契約書においては著作財産権14支分権の内、利用許諾の対象となる権利名を具体的に列挙し、また人格権の取扱いはどうするのか、独占条項を付けるのかどうか等詳細に明示するべきです。主要財産権複数の利用許諾と併せて独占条項を付けるのであれば、画家が受け取る合計額は、レンタル期間の長短に関わらず、通常その作品の販売価格よりもはるかに高くなるはずです。利用許諾料の支払いを免除して貰うという方法も確かにありますが、レンタルが骨子の事業である以上、著作物利用の無償化といった事態は社会一般通念上認められるものではありませんし、逆に「絵画は減価償却型ではなく増価蓄積型の商品であるから残価という概念が発生しないため、画家に払うのは利用許諾料だけで十分だ」と悪質に開き直るレンタル業者がいましたら、私が画家の代理人となって、その業者にレンタル期間中に売れたであろう機会の損失の埋め合わせとレンタル期間終了後に確実に価値を増加せしめる金銭見積り可能な投資を行わせます。見て貰う、知って貰う、理解して貰う、人気を出す、この4つのステップを踏んで初めて絵画の価値は上がるのです。単に飲食店やホテルの壁に飾ってお客様に目の端で見て貰うだけで価値が増加するなどという解釈を許してしまっては、全国の画廊や百貨店の存在意義まで失われてしまうでしょう。
 また画家から作品を適法に買い取ってレンタルするという方法においても、ものの考え方は同じです。売買の法律行為において移転するのは所有権だけです。譲渡権は消尽しますが、その他の著作財産権は著作者の手元に残ったままでいますので、業者は画家に利用許諾料を払わなければなりません。
 本来絵画レンタル事業というのは2、3カ月の短期間設定にでもしない限り成立させるのが難しい事業なのです。なぜならそれは著作物利用許諾ビジネスであって、商品の価値より著作財産権の価値が大きく膨らんでくるという特異性を持っているからです。
 一般的に債権は対人における相対的な性質を有するため、排他的支配性を持つ物権に劣後します。しかし著作財産権に限って言えば、所有者の有する最たる物権である所有権にさえ制限を課すことのできる非常に強力な権利なのです。この極めて強力な権利を正当に評価するのであれば、絵画レンタルビジネスにおいては、画家側に莫大な利益が発生し、レンタル事業者側にはほとんど利益が残らないといった図式になるのが至極当然であり、利益追求集団であるレンタル事業者にとってみれば全く面白味のないビジネスとなるはずなのに、まるでブルーオーシャンに栄える漁船のようにレンタル事業者の数が増加の一途を辿っているという現象が私には理解できないのです。
 確かに現在、かつてのモノを所有する時代からレンタルする時代へとトレンドは移り変わってきておりますが、他者の有する権利には敬意を払って、くれぐれも美術業界をレッドオーシャン(血の海)に変えてしまわないように気をつけて頂きたいと存じます。

 さて3の事業でございますが、これは先程申し上げた「角度」の深化、概念化を図る上での具体的作業となります。必然難易度の上がる事業になると想定しておりますが、まずは貸借対照表を映像詩に転換して、それを教育資料として企業様に販売していくことを計画しています。
 内容から察して頂けると思いますが、この事業は突拍子もなく行える性質のものではございません。1の事業の成功なくして成り立たない仕組みとなっています。
 よって1の事業こそ当社スタートアップの土台となる事業であって、社名の一部である「月下の一群」がこの事業に該当します。宝石のような個性と才能を持つ画家様を見い出し、彼らと提携し、彼らの作品を消費者の皆様の元に送り届けたいと願っています。単なる癒しや慰めを当社「月下の一群」に求めないで下さい。代わりにもっと深い驚きと思考転換させてくれる天使の眼差しをあなたの元に届けますので、書斎に重厚な書物を備えるような感覚でご愛用頂きたいと存じます。

 加えて企業様に対しましては、従来にない販売展開を計画しております。株主、顧客、脱炭素、コーポレート・ガバナンス、ファイナンス、M&A等、現在日本経済の各企業様は様々な問題に直面しているはずです。冒頭申し上げた第二の危機を日本経済が脱しさえすれば、必然的に大資本化に向けたM&Aの多発という問題が発生してくることでしょう。
 美術界と経済界を本当の意味において結び付かせたいと望むなら、これら各企業の個別の課題に向き合わなければなりません。
 かねてより企業に対してアートの活力の導入を謳う美術界の動きはありましたが、だからと言ってたとえばジャスダックやマザーズの詳細な企業分析を行ったアート系企業はいたでしょうか? 美術界が経済界を想うとき、まず頭に浮かんでいたのは企業の入口、ロビーではなかったでしょうか? ここに一つの限界が露呈されています。
 私は各業界、各企業の個別の分析を通して、その企業が抱えているであろう課題を推し測った上で、「月下の一群」の絵画を会議室に飾っていくことを計画しております。なぜなら戦後日本経済の歴史は企業の会議室でつくられてきたからです。今でこそコロナの影響でミーティングの多くはONLINEで行われるようになりましたが、企業の存続に係る重要な課題を話し合う際は従来通り会議室が使われておりますし、そういう意味ではこれからも歴史は会議室でつくられていくことになるでしょう。
 この会議室というトポス、この心臓部に絵画が入って行かない限り、本当の意味において美術界と経済界が結び付くことはないのだと私は考えております。但し、会議室という場所に絵画を飾るという事象において、そこに曖昧さを介入させてはいけません。癒し、華やぎ等といったムードを会議室の壁は求めていないはずです。
 また突破口を求めて議論するとき、議論の直線上からヒントはやって来ないはずです。ヒントはいつも思いもかけない想定外の角度からやって来ます。その角度を気づかせてくれるものとして「月下の一群」の絵画を私は企業の会議室に飾りたいと思っているのです。
 イメージしてみて下さい。たとえばセザンヌを飾っている会議室の空気を。実は、たとえばではなく、セザンヌの「大水浴」や「カード遊びをする人々」や「りんごとオレンジ」のような絵画こそ企業の核である会議室に飾るべきだと私は本気で考えます。課題を多角的に検討する前に、会議のメンバーがセザンヌの描くりんごのように「多角からの客体」になっていなければならないのです。
「りんごで世界を驚かせてやる」と勢い込んで「多角からの客体」を描き続けたセザンヌは、しかし悲しいことに、一世紀早すぎました。さぞ、無念だったことでしょう。彼が世界という言葉で指した場所が決して美術界だけではなかったであろうことを私は理解しているつもりです。

 最後になりますが、「月下の一群」とは堀口大學氏が翻訳した有名なフランス詩集の題号でございます。堀口大學氏の錬金術の元、総勢66名の偉大なフランス詩人の作品がまるで一つの惑星を形成するかのように高密度で収録されています。
 今となっては笑い話ですが、かつて私は若い頃、詩人を志していた時期があり、その頃ポケットや鞄にいつも忍ばせていたのがこの詩集です。「月下の一群」は私の武器であり、またこの世ではない別の世界の象徴でした。
 私は詩から実にたくさんのことを吸収しました。ボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ、そして「月下の一群」には収録されていませんが、異次元の輝きを放つ強じんな詩魂の持ち主、ランボー。彼らがまだ若かった私に視界の外側にある幾条もの「主観の角度」の存在に気づかせてくれたのです。
 彼らが教えてくれたものは、そればかりではありません。どんな残酷な事実をも諭すようにカバーしてくれる心優しい何か。決して人間を絶望の淵に追い込まない力強い何か。よって人間とは常に新しい存在であること。
 それらの糧を言葉で表現するにはあまりにも難しく、ただ匂いのようなものとして私の手中に残っています。
 今、手中に残るこれらすべてのものを解き放ち、画家版「月下の一群」を構築していきたいと考えています。

2022年1月2日

株式会社アート・シンクタンク&月下の一群
代表取締役 柏木敏幸

株式会社アート・シンクタンク&月下の一群

〒640-8451
和歌山県和歌山市中649-2-1グリーンプラネットハウス301号室
TEL : 073-452-3637