「無形資産の台頭①プラトンの洞窟から脱出する方法」
1968年製作のアメリカ映画「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督作品)の冒頭シーンは、人類が体験から認識へと移る過程を描いていて興味深い。
モノリス(根源からの使者)に太陽の光が差したとき、一匹の原始の霊長類がおもむろに地面にしゃがみ込み、ヌーの白骨死体から一本の乾燥した骨を手に取り上げた。しっかりとしたその形状をしばらく見つめた後、うっすらと何かに気づき始めたように左右に小刻みに首を傾げながら、試しに一度それを地面に振り下ろしてみる。鈍い炸裂とともに、続けて二度、三度と。やがてそれは彼の中で次第に確信に変わっていき、激しく何度も骨で地面を殴打し始める。彼は気づいたのだった。これがあれば獲物を仕留められるし、敵と戦う際の武器にもなる。
要するに彼は彼にとっての「形有る資産」を見つけたのである。
この局在的な状況を、まずは推論の成就、認識の完結と呼ぶことにしよう。
その状況が局在的であるがゆえに当然発生する欠落部分に目もくれず、知の触媒の役割を果たしたモノリス(根源からの使者)などというものが果たして本当にあるのかどうかさえ不確かであるが、確かに私達人間は以来認識が完結した科学的状況の中においてしか生きてこなかった。首を固定され、壁に映る像しか見ることが許されなくなったプラトンの洞窟の囚人のようにである。
「2001年宇宙の旅」の冒頭で現れた「形有る資産」である骨の形状は高性能コンピューターHALを搭載した宇宙船の形状と重なり、映画は宇宙の海原へと展開していく。全編においてストーリー性の薄いこの映画は、余分なものを削ぎ落とそうとするスタンリー・キューブリックの明らかな意図が感じられ、大胆不敵なラストシーンの演出において、冒頭で刷り込まれた認識完結の結節点がものの見事にはずされるのである。
この大胆不敵な断絶のラストシーンを見るにつれ、これこそまさにプラトンの洞窟から脱出する試みに他ならないと感じる向きもあるだろうが、しかし事はそう容易ではないはずだ。「形有るモノ」への認識に馴染んでしまった私達の習性を遡行させるのは容易なことではないのである。
では、どうすれば認識完結の結節点をはずし、脱出することができるのか?
そして同時にもう一つの問いとして、そもそも脱出することに意義はあるのか?
洞窟の中の囚人は壁に映るイデアの影だけを見て生きているのであり、光が差す外側に影以外の世界(イデアの世界)があるということに気づく術さえないのだと哲学者プラトンは認識の完結した人間をそう比喩して語ったが、重要なのはこのたとえ話を文字通り短絡的に読むことではなく、この洞窟の次元をどこに置くかである。この洞窟の位置する次元によって上記の問いに対する答えはおそらく違ってくるだろう。
まだ私が30代前半のことだったと思う。当時就いていた職業の性質のせいか、若干唯物論的思考に傾いていて、ちょうどその頃東京の八重洲ブックセンターでタイトルだけを見て衝動買いしてしまった本と、図書館の美術コーナーで思わず見入ってしまった絵画がある。
ジャイルズ・ミルトン著の「スパイス戦争」とパウル・クレーの「綱渡り芸人」である。書籍「スパイス戦争」においては、世界がグローバル化し始めた大航海時代、香辛料ナツメグを巡って、スペイン無敵艦隊を撃破したイギリス艦隊が後塵のオランダ艦隊との間で繰り広げた血腥いスパイス・レースが描かれていて、絵画「綱渡り芸人」には不思議なことに一点の絵の中に唯物論と唯識論が同時に表現されていた。まるで天啓のようにちょうど同時期に出会ったこの本と絵が、半端で意固地な唯物論に傾きかけていた私に程良いカタルシスをもたらしてくれたのである。かと言って単純な振り子のように唯識論に傾いたわけではない。それまでまるで大前提のように聳え立っていた「形有る物質」という概念に限界を感じ、ある種の白々しさを感じ始めたのである。
イギリスとオランダは双方の東インド会社が協定を結ぶまでの長い期間に渡って、多くの戦死者や疫病による死者を出しながら、ナツメグの樹木が生い茂るバンダ諸島の領有を巡って大砲を交え続けた。世界がグローバル化し始めた剥き出しの時代である。静かな交易という手段では両国ともに舵を取れなかった。「スパイス戦争」はそんな時代の戦争を生きたイギリス司令官の英雄譚のようにも語られているが、そこに一抹のはかなさ、要するに無価値を読み取ることも可能である。彼らは理念のために戦ったのではない。理念のために戦ったのであれば、まだ人間性という観念も保証されるであろうが、彼らは人間性さえ抹消されかねない「形有るモノ」の威力に屈して戦わされたのである。
当時ナツメグは伝染病の特効薬や防腐剤として用いられ、ヨーロッパでは希少価値が非常に高く、遠いバンダ諸島からナツメグを積載して帰港した艦隊は港で熱気をもって迎えられた。「これがあれば病気を治すことができるし、肉もおいしく食べられる」この期待が往路も帰路も海上で繰り広げてきた戦いの理由だったのである。しかし果たして理由は本当にそれだけだろうか? ここに至って再度私達は気づかなければならない。「これがあれば病気を治すことができるし、肉もおいしく食べられる」というのは顕現した文脈であり、これこそまさに立派な認識の一形態なのである。映画「2001年宇宙の旅」冒頭シーンにおいて、「これがあれば獲物を仕留められるし、敵と戦う際の武器にもなる」とヌーの骨を手に握りしめ認識を完結させた原始の霊長類と大航海時代のヨーロッパの人達は寸分違わず像が重なる。ナツメグという、スパイスではあるが形を有したモノに対して人間側の認識が完結し、戦いという社会現象を引き起こしたのである。もしナツメグを見ても、その効能を認識できていなかったとしたら、事は水面下の流れに任されて、きっと誰もガチャガチャと動いたりしなかっただろう。仮定ではあるが、この、見ても認識できない、という状態がプラトンの洞窟から脱出するための重要なポイントになるのである。しかしその状態は自発的につくり出せるものではない。
認識は「形有るモノ」に対して、より俊敏にかつより強度に作用する。この局在化の運動は強い習性を持っているが、反面、得体の知れないものに対しては、さほどでもない。得体の知れなさが激しければ激しいほど、私達は木偶の坊のようにプロセスの発生しない体験の領野にとどまることになる。
パウル・クレーの不思議な絵「綱渡り芸人」を知っている人は多いだろう。従来の解釈に従えば、この絵はバランスを表現していると言わなければならないのだろうが、はっきり言って上下のバランスは完全に崩れていると私には見えた。このアンバランスが私の胸を打ったのである。なるほど上部の綱はさすがにきちんと描かれているが、下部に至ってはどうだろうか? 下部左側に綱台へと続く階段らしきものが見える他は全体的に弛緩していて、さらに下方へとのびる複数の線には形を結実させようとする意志が感じられず、そこはかとない無形感が漂っているだけだ。天秤にのせるとき、「形有るモノ」は「形有るモノ」によってしかバランスが取れないはずである。勿論クレーは有形を無形によってバランスを取ろうと画策したわけではない。思考において几帳面で、おそらく沈思黙考型人間であろう彼がこの絵において思わぬ逸脱をしてしまっているのである。
同じく線に強い執着を示した日本の画家で篠田桃紅さんを挙げることができるだろう。しかし、クレーとは全く異なっていて、彼女は時に線に人としての生き方を求めたように線自体が豊穣な形の概念を宿し、あわやアニミズムに陥りそうなギリギリのところまで勇敢にも攻め込んでいるが、クレーにとって線は形を形成するための手段であった。それが彼の造形理論であるのだが、目的である形の形成と同じくらいその手段である線の秘められた特異性に対しても熱の籠った追究の姿勢をとっているため、一種の線理論ともなっている。たとえば彼が晩年に描いた「忘れっぽい天使」や「泣いている天使」。とても悲しい雰囲気を漂わせているが、見ようによってはとても不思議な絵でもあり、まず最初に線が視覚情報として目に飛び込んできて、ほんのしばらくしてからふと気づいたように、天使の形をしている、と認識できるのである。このように乖離性を帯びた形と線が目的と手段に位置づけられて、双方に同量の熱が注がれたとき、種々の逸脱といったものが突発的に発生しやすくなるのかもしれない。無論そうした逸脱が起こったとしても、それはクレーが自発的に意図したものでないことは確かである。ただ線が形を形成するといった如実性がほんの一瞬でも否定されるのであれば、同様に無形は有形の礎にはならないだろう。
念を押しておくが、私はクレーを批判しているのではない。むしろ大好きな画家の一人である。あの理想的な教育機関であるバウハウス(ドイツ、ワイマール共和国の美術、建築、デザインの総合学校。教育課程として実用的な簿記のカリキュラムもあり、経営学の要素も取り入れ、調和のとれた教育を実践した。ナチス・ヒトラーの手によって廃校に追い込まれはしたものの、その教育内容は米アップルの創業者スティーブ・ジョブズにも多大なる影響を与えるなど、今も世界中の多くの芸術家、建築家、デザイナーにバウハウス・スピリッツは受け継がれている。)で教鞭を執ったほどの実力のある徹底追究型の画家であるからだ。しかしそうした徹底追究型の人に限って、時として論だけでは済まなくなるのである。少なくとも西洋思想はそのようにして発展してきた。
彼の造形理論の理論からはみ出した部分に私は可能性を感じる。それはクレーが造形理論を超越して、思わず生み出してしまった被虐的な可能性とも言えるだろう。彼はプラトンの洞窟の壁に映る像の形に忠実であろうとして、ふとしたはずみに目を滑らせてしまったのではないだろうか? 粒子が軌道という極めて如実な継起現象からふとしたはずみに飛び出してしまうようにである。
「綱渡り芸人」はそういう意味においてこそ興味深い。
そして「綱渡り芸人」を観て、貸借対照表の左側の構図を思い浮かべてしまう人はそう多くはいないだろう。
企業の決算書の一つである貸借対照表の資産の部において、固定資産は有形固定資産と無形固定資産にわけて表示されている。有形固定資産には建物や土地、機械装置等、無形固定資産にはのれん、産業財産権、ソフトウェアといった勘定科目がカテゴライズされ、現金及び預金、製品といった流動資産の科目と同様、資金の運用形態と言われているが、実はこれらの科目は利益を生み出す企業内の装置としても働いていて、むしろその役割の方が大きい。
しかし一概に利益を生み出す装置と言ってはみても、有形資産と無形資産とでは利益の生み出し方に特殊な差異があるのである。そしてその差異は経営者の物の考え方にも及んでいる。まずはその差異について論じる前に、昨今新聞記事でよく見かける無形資産ののれんについて説明しなければならない。
貸借対照表、無形資産ののれんの最近の膨大化現象は軽視できないレベルの世界経済の緊張状態を表している。特にメタバースの到来に向けて、今後世界的に加速するであろうM&Aの増加に際し、私達が気をつけなければならない点はそこにある。
のれんとは、M&A(合併・買収)の際に、買収企業が被買収企業に対して支払う代価の内、被買収企業の貸借対照表右側の純資産の額を超過する部分を指し、それを無形資産として計上する仕組みになっている。連結の貸借対照表にそれは反映される仕組みとなっているが、吸収合併の場合は買収企業側の単体の貸借対照表にものれんは計上される。M&Aが被買収側の純資産を超えて大金が動く現場となっている要因は、被買収側のブランド力等の超過収益力を見込んでのことであり、その見込みは事前の詳細な調査に基づくデューデリジェンスにより大方保証されてはいるが、実際は多額の売却益を求める被買収側の強気な姿勢で交渉が失敗した結果のれんが大きく膨らんでしまったというケースも多いのである。
このようにして貸借対照表の中で大きく膨らんでしまったのれんの取扱いには十分注意しなければならないだろう。不穏な爆発性がそこには秘められているのである。
こののれんの会計処理に関しては、日本基準と国際会計基準(IFRS)で異なっている。日本基準はのれんを減価償却するが、国際会計基準は減価償却せずに、年一回の減損テストにより価値の低下が判明すれば減損処理を行うことになっている。日本基準の減価償却は建物や車両運搬具等の減価償却と同様、その費用は損益計算書の販売費及び一般管理費に計上され、その結果として最長20年間に渡って営業利益がジワジワと圧迫されることから、M&Aをしようとしている企業の士気を削ぐ恐れがあるのだが、そういう欠点があるにもかかわらず現在の国際会計基準はこの日本基準の減価償却ルールを取り入れる方針を示している。正確に言えば、減価償却ルールを取り入れでもしない限り、現行の減損処理ではリスクが大きすぎるのである。のれんが大きく膨らんでしまった現状では、減損処理に伴う減損損失も巨額レベルで突然やってくるのである。
もし巨額の減損損失が発生すれば、損益計算書の特別損失にそれは計上され(損益計算書に計上せず、直接繰越利益剰余金を減らす方法もあるが、損益を繕うだけで結果は同じである。)、たとえ経常利益までが健全な黒字であったとしても、不意打ちを喰らったかのように税引前当期純利益が大幅な赤字となり、株主資本等変動計算書において株主への配当の源となる繰越利益剰余金が見る見る圧迫され、貸借対照表の右側の純資産が縮小し自己資本比率が悪化するとともに株主も離れ、企業は資金の調達源泉として金融機関からの借入れに走ることになり、そのことが流動比率の低下を招き、さらに最悪のケースとしてのれんの額が純資産を上回っていたら、企業の安全性は完全に崩壊する。何を目論んでの巨大M&Aとするか、その趣意が世界的にほぼ同じ流れに沿っている以上、市場の連鎖は当然避けられず、よって私達は世界的な金融危機と直面してしまうかもしれない。世界中ののれんが被買収側のブランド力を正確に反映できていない状況であれば、尚更その可能性は高いと言わざるを得ないだろう。
つい最近の新聞記事だが、米テスラの共同創設者でありCEOでもあるイーロン・マスク氏が米ツイッター側の複数の契約違反を理由として買収を撤回する旨通知したことが報じられていた。想定外の展開であったが、イーロン・マスク氏にしてみればテスラの株を売却してまで臨んだ買収を断念したくらいだから、それ相応の許容できない理由があったのであろうと推測できる。ところが、である。被買収側であったツイッターがその通知を受けて、法的措置をとる準備に入ったと記事には続けて書かれていて、その記事全体の流れをくみ取れば、結局M&Aにおける真の利益の享受者はどちらなのかという問いに行き着いてしまう。この事例からもわかるように、M&Aの現場においては被買収側も多額の売却益を求めて強気で攻めてくるのである。買収側が強者で、被買収側が弱者であるといった一般的なイメージとは異なる実態がここにはある。
最近CEOに返り咲いた日本電産の永守重信氏は同社の創業以来、まだ日本ではM&Aがそれほど注目されていなかった頃から67件のM&Aを実施して、たった一代で日本電産を世界トップレベルのモーターメーカーに押し上げた猛者として経済界でもよく知られている。67件という数字自体驚異なのであるが、それらをことごとく成功に導いてきたのだからまったく恐れ入る。
主著「永守流 経営とお金の原則」で永守重信氏はM&Aにおいてとりわけ重要なこととして「買収後の統合作業(PMI)」を挙げ、成功の3条件として「高い価格で買わない」「ポリシー」「シナジー」といった重要な指針を示してくれているが、この「高い価格で買わない」という姿勢こそ「シナジー」の厳格な調査に基づく純粋抽出物であり、無分別に買い叩くといった商売根性のようなものとはまったく無縁の、要するにのれんを真実の姿に限りなく近づけるといった日本電産の「ポリシー」とはまた別の経済界の「ポリシー」のようなものさえ窺えるのである。
氏は外国企業の買収額の妥当性をはかる指標としてイービットディーエー(EBITDA、税引前当期純利益に販管費の減価償却費と営業外費用の支払利息を足し戻した利益)の活用をすすめてくれているが、確かにこの指標は日本経済新聞でも時折見かけるように理にかなった頼れる指標であることだろう。氏の経営者としての決算書を読み込む力が窺い知れる。
詰まる所のれんとはM&Aの際にデューデリジェンスという客観的な評価を経てはじめて貸借対照表に計上される資産であるのだが、ここに至ってそもそものれんの真実の姿とはどんなものなのか翻って考えてみよう。そもそものれんとは皆が知っているように、店の軒先に掲げられている暖簾である。あの暖簾はただの飾りではなく、店の信用力とかカスタマー・リレイションシップ(顧客との関係性)の強さを表しているのであり、M&Aとは関係がない。M&Aという企業活動に依らずとも、その店、企業が独自で持っている目に見えない力強さであり、それがのれん、要するに無形資産なのである。しかしその種の無形資産はなかなか貸借対照表には反映されず、反映されたとしても開発や構築に要した費用だけで、ブランド力は含まれない。たとえその企業に大きな収益を生み出す業務上のノウハウや契約の対象となり得る強みがあったとしても、企業会計上、石橋を叩いて叩いて結局渡らないといったような具合に、それらは損失が憚られて無視されるのが現状である。しかしM&Aののれんの減損損失と比して、その損失は如何なるものであろうか?コーポレートガバナンスさえしっかり出来ていれば、自社内においてもデューデリジェンスに劣らない客観的な評価は行えるだろうし、極めてそこには被買収側の強気な姿勢といった要素は存在しない。むしろ事前に大方の企業がM&Aに依らないのれんを計上しておくことによって、逆にM&Aの際のデューデリジェンスの精度を高め、被買収側の無茶な要求を抑制することにも繋がるのではないだろうかと考える。
また、商売やビジネスをしていて苦労をしたことがある人ならおそらくわかると思うが、本当に苦しい時に助けてくれるのは、正しい知識の集積から成るノウハウだったり、知性の備わったアイデアだったり、良き社会的な人間関係だったりする。これらの強みを貸借対照表の無形資産の勘定科目に積極的に組み入れるべきだと考えるし、貸借対照表は誕生以来その許容性を有しているものと想定して私は論考をすすめることにする。
よってこれから述べるこのシリーズの貸借対照表はそういった姿のものであることと、無形資産もまたそういった資産であることに留意していただきたい。
のれんの説明で大分話は横道にそれてしまったが、世界経済の問題ともなる重要なポイントであるのでご容赦願いたいと思う。
長らく述べたように、無形資産は有形資産とは異質であり、形がないだけに価値の計測が困難で、それは俯瞰すれば資本主義社会の資本の額の計測が正確に行われていないといったことにも通じるだろう。そんな曖昧な状態にあっても、前述のとおり、両資産はその企業にとって利益を生み出す重要な装置であることに変わりはない。
しかし、利益の生み出し方が違うのである。無形資産が利益を生み出すにあたり、有形資産のような特定の具体的な場所を必要としないのである。たとえば有形資産の工場建物であれば、○○県○○市○○町○○番地○○といった住所が不動産登記以前の現実的な必要条件として付随してくるが、無形資産のノウハウや権利や人間関係といったものには当然のことながら住所など付くはずがない。
無形資産の産業財産権を見てみよう。産業財産権は産業上の創作に対して付与される権利で特許権、実用新案権、意匠権、商標権があるが、まず社会的に一番話題に上がりやすい特許権を見てみよう。
特許権とは、自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度な発明に対し、厳しい審査と時には審判、訴訟を経てようやく設定登録される権利である。よく耳にする特許戦略という言葉どおり、この無形資産からは多大な利益の発生が期待されている。まず特許を取得した企業がその権利を独占的に利用して他社には真似のできない製品を製造販売することによって利益を生み出すほか、権利を非独占にして自らも利用するかたわら複数の他社と通常実施権のライセンス契約をしてコンスタントに実施料を得るといった方法もある。
また特許権者自らその権利を利用する意志がまったくないのであれば、他社と排他独占的な専用実施権のライセンス登録をして、その代価として高額なロイヤリティを得ることもできるだろう。
このように種々の利益を生み出せるわけであるが、その元となるものはソリッドなマシーンのようなイメージとはかけ離れて、形もなければ影もない。空間内に存在していないのである。先程述べた工場建物や冒頭で記したヌーの骨やナツメグは、不動産と動産の違いを要さず、空間内に位置を占め体積を表出させる空間内存在であるのに対し、特許権その他ノウハウや人間関係といった無形資産は位置や体積を顕現させない空間内非存在なのである。
よって両資産に単純に有と無といった対義語関係の相対性を認めてはいけない。相対的と言えるには双方ともに測れる共通の尺度や地盤がなければならず、両資産にはそれがないからである。
空間内存在と空間内非存在的存在。これはおそらく次元の違いと言ってもいいだろう。
私が貸借対照表はアートだと感じるのはまさにこの点なのである。本来同列に並べられないものが同じ表の中に並べられていて、その表層を見るにつれ、まるでふとしたはずみに逸脱でも起こしてしまったかのようにアートが経済にのめり込んでしまった現場に出くわした印象を受けてしまうのである。
再びクレーに話を戻そう。彼の作品「綱渡り芸人」は下部が上部を支える構図として見ることができる。勿論クレーもそれを意図して描き始めたのであろうが、思わぬ逸脱でその作品は超立体的な次元のズレを表しているようにも見えてくる。
画面上部の綱渡り芸人はプラトンで言うところの洞窟の中の囚人だろう。彼には一本の綱という「形有るモノ」しか見えておらず、それをそうさせているのは空間の作用であって、彼が洞窟の中という場所に自己の存在原因を如実的に先駆されている存在だからである。洞窟から脱出するということは今在る場所から別の場所へと移動することではない。場所から、現実の場所の感覚を有さない非場所への、跳躍なのである。
プラトンは洞窟の中、イデアの世界、イデアの中のイデアといった三つの次元を用意した。しかし、もし洞窟の中が第一の次元に属するのなら、跳躍は可能である。非場所もまた広義の場所的状態だからである。
現に線を描いて形をつくる造形という行為。手段と目的、原因と結果が如実に繋がるこの行為の中に、実はあっけないほど明瞭に一つの次元の跳躍が潜んでいるということに、絵を描く人達に気づいてほしいと私は思う。普段特別意識することもなくしているその跳躍行為に気づき、その跳躍自体を表現する、要するにプラトンの洞窟からの脱出を図る画家が現れて来ないだろうかと私は思う。
どうやら経済界は美術界よりも一歩先に進んでいるようだ。
今や世界経済の先端を牛耳るGAFA、テスラ等に私はその動向を強く感じる。無形資産の台頭を感じるのである。
2022年7月27日
株式会社アート・シンクタンク&月下の一群
代表取締役 柏木敏幸